「ダイアローグ」でワールドカフェ的読書会

前回好評だったワールドカフェに続いて、今年、最初の読書会は「ダイアローグ 」にしました

1月28日(月)19時から
場所は、同じく東京21cクラブの予定です

今回の読書会もワールドカフェ形式でやります
12名くらいの小規模で、20分ずつの4セッション
全体共有なしでやってみようと思います

思い思いに語る意識の奥底にある何かを引き出してみたいので


読書会はここのところ「シンクロニシティ」、「出現する未来」とP.Sengeの「Learing organization」の流れが続いています。この一連の読書会は、CTIジャパンコミュニティ活動として代表の島村さんと一緒に取り組んできたものですから、コーチとしての意識と密接な関係があるわけですが、何に一体興味を惹かれているのか?

学習する組織に隣接する概念に集合知があります。私たち一人ひとりは、自我を持ち、自分で考え、判断をしているつもりです。一方で集合的な意識もあって、人間の脳も含めて「考えている」と思っている主体は、神経細胞が複雑に連結された集合であるように、一人ひとりが密接に連携しているとまるで一人の生命体のように意思をもっているかのようです

組織に風土・文化というものが確かに存在しているけれども、一人ひとりの人間を見れば、どこにも存在していない。人と人の関係のなかで何となく存在している。細胞の一つひとつを見ると個人差はほとんどないけれども、その集合である一人の人間は、皆違っている。ほとんど違いのない細胞がつながり方の違いで性格や意識に差異が生まれている

神経系のように、情報がどのように流れるかが意識だとしたら、組織においては発話やフィードバックの活性度が意識だということになる。組織の構成員となったときに、私は果たして私なのだろうか?

自分のなかに意識の葛藤がある際には、細胞単位では賛成派と反対派が存在しているのだろうか?ダイアローグでは、私とあなたが語り合っているつもりなのだが、果たして別々の存在なのか、それとも・・・ コーチとクライアントはお互いの意識の垣根を低くして共にいてわかちあうことによって英知を獲得しているわけです。人は何かを成し遂げるとき、自分を超えたより大きな何かとの存在との一体感を感じます。その経験は一体何なのか?自分という存在は何なのか?
もし、私が何かの一部ならば、誰かと争ったり、うらやんだり、ねたんだりする必要はないはずなのに  そんなことを語り合ってみたいと思います

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このページは、鈴木利和が2008年1月 6日 11:19に書いたブログ記事です。

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